高幹を斬る
王琰は、郡の太守を歴任したが、清廉潔白と目される人物ではなかった。并州刺史の高幹は、曹操が鄴城を陥としたときに降伏し、そのまま刺史に任命されていた。高幹は、曹操が烏丸を征討したと聞くと、州をあげて反乱した。206年1月、曹操は高幹討伐にのりだした。高幹は三ヶ月間、壺関を守備していたが、陥落すると荊州へ逃げようとした。このとき、上洛都尉であった王琰は逃げる高幹を捕らえて斬り殺した。
『典略』の記述
王琰は、高幹を捕らえた功績によって、侯にとりたてられた。このとき、王琰の妻は、王琰が富貴を得れば、別に妾をめとって自分への愛が奪われると考え、部屋で大声をあげて泣いたという。