王 昶(おう ちょう、? - 259年)は、三国時代 (中国) 三国時代の魏 (三国) 魏の武将、政治家、学者。字は文舒。父に王沢、伯父に王柔。兄に王機。子に王渾(玄沖)、王深(道沖)、王湛(處沖)。甥(兄の子)に王黙(処静)、王沈(処道)がいる。并州太原郡晋陽の人。『三国志 (歴史書) 三国志』の魏志に伝がある。<br/>父と伯父は後漢の郭泰(郭林宗)に認められ出世した人物として有名である。<br/>王昶は若い頃から同郡出身の王凌 王淩とともに名を知られ、年上であった王淩に兄として仕えた。曹丕(文帝)には太子時代から仕えて太子文学、太子中庶子にとりたてられた。魏 (三国) 魏が禅譲により成立すると散騎侍郎から洛陽の典農校尉となり、田畑の開墾に功績を挙げたため、兗州刺史となった。曹叡(明帝)が即位すると揚烈将軍・関内侯となった。この時期に、法律や兵学についての著作に励み、子や兄の子の教育にも努めた。『治論』や『兵書』、『家誠』など、多くの著述がある。<br/>
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