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何皇后 (皇后)

  • 人物番号: 0308
  • 姓 名 :  皇后こうごう
  •  字  : 
  • 出身地 : 南陽郡なんようぐん 宛県えんけん
  • 生没年 : ? ~ 189
  • 性 別 : 女性

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何皇后(かこうごう) 霊思何皇后 - 後漢の霊帝の皇后。 昭献皇后 - 三国呉の廃太子孫和の妃で末帝孫皓の母。皇后を追贈された。 何法倪(穆章何皇后) - 東晋の穆帝の皇后。 何令婉 - 南朝宋の前廃帝の皇太子時代の妃。皇后を追贈された。 何婧英 - 南朝斉の廃帝蕭昭業の皇后。 何皇后 (唐昭宗) - 唐の昭宗の皇后。身長は七尺一寸(約163cm)。生家は屠殺業という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝い手で後宮に入った。後宮に入った後、貴人となった。霊帝の寵愛を受け、男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、妃嬪たちは皆、彼女を恐れていた。霊帝の最初の皇后であった宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた(180年)。霊帝の寵妃であった王美人が劉協(後の献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺した(181年4月)。霊帝が激怒し、何氏は廃されそうになったが、宦官の取りなしにより何とか免れた。同年6月に父に車騎将軍と爵位が追贈され、183年に母にも舞陽君の称号が贈られた。189年、霊帝の崩御後に少帝弁が即位すると、何氏は摂政皇太后となった。政敵であった姑の董太后との争いに勝ち、董太后を洛陽から追放し、幽殺した。しかし、何氏の政権を支える何進と宦官(十常侍)が争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、何苗と共に何進の計画に反対した。結果、何進と十常侍が政争で共に滅び、また何苗も何進配下の呉匡によって殺害されてしまい、洛陽に入った董卓が権限を手中にすることになった。董卓は董太后がたまたま自分と同姓であったため、董太后の報復として何氏を排除しようとした。董卓は何太后を脅迫して少帝の廃位を実行し、董太后が養育していた劉協を帝位に就かせた。さらに董卓は何太后に対し、かつての董太后に対する振る舞いが「孝の道に叛く行いだ」と問責した上で、永安宮に幽閉して、後に子の弘農王劉弁とともに董卓の命令を受けた李儒によって毒殺された。何太后が霊帝の陵に合葬されると、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪い取ったという(『後漢書』董卓伝)。

ウィキペディアより

何皇后の一族

何皇后が登場する文献
  • 1-413~415,1-448,2-66.

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