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何進 遂高

  • 人物番号: 0354
  • 姓 名 :  しん
  •  字  :  遂高 すいこう
  • 出身地 : 南陽郡なんようぐん 宛県えんけん
  • 生没年 : ? ~ 189
  • 性 別 : 男性

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何 進(か しん、? - 光熹元年8月29日(189年9月22日))は、中国後漢末期の武将、政治家。字は遂高。荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の人。異母妹は霊帝の皇后(何氏)。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。子の名は不詳。孫は何晏。 元々、何氏の家系は屠殺業であったとされる。 同郡出身の宦官郭勝の後押しがあって、異母妹が宮中に入り霊帝の貴人となったため、何進は採り立てられ郎中となり、虎賁中郎将を経て潁川太守に転じた。光和3年(179年)に宋皇后が廃され異母妹が皇后に立てられると、中央に戻り侍中となり、将作大匠・河南尹となった。 中平元年(184年)、太平道の張角による黄巾の乱が勃発すると、何進は大将軍となり、近衛兵を率いて首都の洛陽を守備し、兵器を修繕し軍備を整えたり、密偵の馬元義を捕らえる功績を挙げ、慎侯に封じられた。また皇甫嵩・朱儁・盧植・董卓らの働きにより、黄巾の乱も鎮圧された。しかし、鎮定後も各地で乱が続いた。中平5年(188年)、霊帝による軍制改革が行われた。西園三軍(西園八校尉)を設置した上で霊帝自身が無上将軍と称し、さらに上軍校尉に寵愛する宦官の蹇碩を据えて、司隷校尉以下を総領する権限を与えた。

ウィキペディアより

何進の一族

何進が登場する文献
  • 1-16,1-19,1-99,1-409~410,1-413,1-418,1-447~451,1-506,1-518,2-9,2-66,2-90,2-196,2-267,2-397,2-426~427,2-470,3-197,3-212,3-383,3-389~390,3-468,5-13,5-27,5-468,7-10.

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