華 表(か ひょう、建安9年(204年) - 咸寧元年(275年)は、中国三国時代の魏から西晋にかけての政治家。字は偉容。本貫は青州平原郡高唐県涸河郷(現在の山東省聊城市高唐県固河鎮)。華歆の長男。弟に華博・華周・華炳(字は偉明)。弟は華緝。子は華暠・華岑・華嶠・華鑒・華澹・華簡。孫は華軼(華澹の子)。『晋書』に伝がある。223年、20歳にして魏の散騎黄門郎に任命され、後に侍中となった。子の華嶠『譜敍』によると、堅実な仕事ぶりを司空(陳羣)に評価されたという。 正元の始め(254年)、曹髦が即位すると、任地の徐州から来朝した石苞は、曹髦を武帝(曹操)の生まれ変わりと賞賛した。華表は政変に巻き込まれることを恐れ、病と称して辞職した。果たして260年、曹髦が司馬昭を討とうとして殺される事件が起きたが、華表は巻き込まれずに済んだ。後に尚書に任命された。司馬昭が五等爵を復活させると、華表は觀陽伯に封じられた。しかし、親族に喪中の礼儀作法に背いた者がいたことを理由に、連座して免官となった。西晋になると太子少傅に任命され、光禄勲、太常を歴任した。数年後、老病を理由に引退を願い出ると、司馬炎は辞職を認め、改めて名誉職の光禄大夫に任命した。司徒の李胤、司隸の王宏らは、華表の引き際の清さを讃えた。275年、死去した。
ウィキペディアより