晋の初代皇帝司馬炎の外戚
王愷は王粛の子で、王粛の娘が司馬昭に嫁入りし、司馬炎を生んだ。司馬炎が晋の初代皇帝となり、娘は文明皇后として立てられ、王愷は外戚となった。文明皇后は王愷の姉か妹かは分からない。
『晋諸公賛』に見える王愷
若い頃、才能力量があったが品行がよくなかった。衛尉の石崇と仲がよく、ともに世間に豪奢を競い合い、後将軍の地位で終わった。
『冀州記』に見える王愷
黄門侍郎であった王愷は、平素から、評判のよい司空従事中郎の牽秀と軽蔑しあっていた。王愷は荀愷にほのめかし、都官を使って、牽秀が夜間道中に高平国の守備兵田興の妻と同車したと誣告させた。牽秀は即座に上奏文を奉って、誣告され陥れられることになった経過を訴え、王愷の醜行について論じた。しかしその文辞がきわめて激烈であったため、多くの人が証明はしてくれたものの、牽秀の名誉はこの訴えによってそこなわれてしまった。