親の七光
父王粛が亡くなったあと、263年に王恂は蘭陵侯にとりたてられた。咸煕年間(264-265)、五等の爵位制度を定めたとき、父王粛に著しい功績があったことで、あらためて永子にとりたてられた。永子とは、永県の子爵のことをいう。
『世語』に見える王恂
広い見識を持ち、朝廷にあっては忠実かつ公正であった。河南尹、侍中を歴任し、どこにおいても評判をたてられた。鬲県の県令袁毅が駿馬を贈ったが、王恂は彼の貪欲ぶりを知っていたので受け取らなかった。王恂の建言により、二つの大学を建立され、それらは五経を尊重した。四十歳あまりで逝去し、車騎将軍を追贈された。